37歳で手にした医大合格(2008年8月)

C2 江藤 晃男

私は、37歳にして国立大学医学部編入試験に合格することができました。受験科目は英語と生命科学などでしたが、どの大学も20倍から40倍の競争率。この難関を突破できたのは、茅ヶ崎方式があってこそでした。まだ合格の実感は湧いてきませんが、この10月から医大のハードな授業が始まります。 
 はじめに、私がこの試験に挑むことになったいきさつからお話しましょう。 
 希望の高校に入学を果たした22年前、私は突如病魔に襲われ、将来の進路を決めるべきときに闘病に明け暮れるはめになりました。医者は当てにならず、針や灸・整体などの東洋医学によって健康を回復したことから、私大の国文科を卒業後に資格を取り、自らも柔道整復師〔ほねつぎ〕となって、神奈川に接骨院を開業しました。 
 充実した毎日でしたが、次第に資格的な限界を感じるようになります。医師ではないため、レントゲンが使えず患者に不便な思いをさせたこともありました。当初はアンチ現代医学の立場でしたが、勉強していくうちに現代医学の長所も見えてきて、それまでの自分の視野の狭さを思い知りました。しかし、30歳もとうに過ぎ、職員も抱え、何より私の学力は高校の初級程度で止まったまま。一般受験で高校生と競って医大を目指すことなど、思いもよりませんでした。 
 そんな時、各地の国・私立医大が、アメリカのメディカルスクールを範として、大卒者を対象に編入試験をおこなっていることを知りました。一般受験に比べ科目数が少ないので、これならいけると考え、思い切って接骨院をかつての級友に譲渡し、36歳にして専門の予備校に通い始めました。 
 しかし世の中そう甘くはありません。受験生はみな若く、名の知れた大学で薬学などを学んだ秀才たちや、英語の試験なら目をつむっていてもできるような帰国子女など、強豪ぞろいでした。予備校の英語の授業も、大卒程度の英語力があることを前提にしていて、科学論文を淡々と読んで訳すだけの味気ないものでした。 
 これはだめかな、と思い始めたとき、たまたま立ち寄った本屋で茅ヶ崎方式のパンフを手にしました。英語力強化の必要性を感じていたため、とりあえず飛び込んでみることにしました。継続しやすい授業料も大いに魅力でした。 
 一回の課題が多すぎず少なすぎず、大事なことは繰り返し出てくるという歯切れのよい授業に引き込まれていくうちに、不思議なことに単語帳にかじりついていてもちっとも頭に入らなかった単語が、するすると頭に入ってきます。単語が定着してくると、文章がはっきりと見えてきます。新鮮なニュースを題材にしているというのも、 楽しさをかき立てました。すると、難解だと思い込んでいた「サイエンス」などの科学論文が、英語的には実は単純な構造の文章だということがわかり、専門用語で知らない単語が少しくらい出てきても、類推がきくようになりました。私などがかなう相手ではないと思っていた他の予備校生たち、特に理系の諸君は英語の読解で苦戦し、帰国子女たちは日本語で答案を作成することに難渋していました。茅ヶ崎の予習だけは絶対に欠かさないようにして、あとは生命科学の勉強に打ち込んでいたら、気が付くと予備校で上位に立っていました。 
 Class 1からClass 2へと、勉強を続けること一年。予備校でも先陣を切って、国立大三校の学科をあっさりと突破し、うち二校の面接を受験して、二校(A大・K大)とも合格することができました。どちらも魅力的で、かなり迷いましたが結局、K大にお世話になることにしました。 
 私は、受験という特殊な目的のために茅ヶ崎方式で学び、予想を超える成果を得ました。英語そのものの習得が目的ではありませんでしたが、段階を追って単語を定着させ、生きたニュースで聞き取り、やがて正しい英語で話すという勉強法は、遠回りなように見えて実は効率的であり、かつ正統な方法であると思います。巷(ちまた)では、文法そっちのけでとりあえず話しましょうといった英会話が流行のようですが、日本語でも言葉を的確に使える人が尊敬されるように、英語の学習にも順序があるはずです。そのような点から、茅ヶ崎の英語は真に価値のある、すばらしい学習方式であると思います。 
 合格を手にしてしばし喜びにひたっていたい気持ちもありますが、あまりのんびりもしていられません。世の中は医師不足。特に地方は惨憺たる状況です。これまでの、ほねつぎとしての経験も生かし、一日でも早く患者の役に立つ医者になることが、私に課せられた使命だと考えています



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